※ご注意 2018/04/18追記
松本自證師からご指摘いただきました。こちらの内容は、誤解を生み、坐れるようになることが遅れる可能性があります。
”真相や悟りに関する理解不足により坐りながらしてしまいがちな例” の【注意事項】
「以下のような努力は不要です。以下のことを絶対にしないように坐りながらチェックすることは不要です。以下の例を一つずつクリヤーしていくことは不要です。自ら意図的にしようとしていなくて、以下のようなことがあったら、あったままで、何もする必要はありません。」
↓決してやらないでください(坐れるようになることが遅れる可能性があります)
” 男について語るには女について語ればいいと言った人がいる。たしかに悪を語ることは善を語ることだし、狂気について語るのは、また正気について語ることだろう。そして何よりも、死について語ることは生について語ること以外のなにものでもない。だから夢まぼろしについて語るのは実は現実について語ることなのである。夢や幻は現実の鏡像なのであり、夢物語は現実の裏話なのである。”
- 夢まぼろし (大森壮蔵セレクションから引用)
今日、読みかけた本にこの一節があり、思い出したことがあります。 同列には並べられないけど「坐れていない」を語ることは、「坐れている」を語ることだったなぁと。
坐禅を始めてしばらく経った頃、松本自證師の「無為真相」にある「坐れているかの確認 修行とは何かなどの理解不足により、してしまう坐りながらしがちなことの例」(ここでは「坐れていないリスト」と呼びます)を知りました。
リストにあることは、ほぼやってると思いました。これまでやってきたことがムダだったと落ち込むと同時に、今からでも知ってよかったと感じました。
しばらく「無為真相」のページを穴が開くほど見ていました。頻繁に見ていないと「坐れていない」をすぐやってしまうので、「坐れていないリスト」を坐禅の前後に眺めていました。印刷してスマホカバーのポケットに入れて。このころ電車でも坐禅できると知ったので電車の中でも確認してました。時間さえあれば座りました。
そのうち「坐れていないリスト」の該当15個が14個になり、13個になり、12個になりと徐々に無くなり、東京の自證師禅会で独参した後あたりから、ようやく「坐れている」と実感するようになりました。そして、あとは坐るのみとなりました。
もちろん「坐れていないリスト」以外の「坐れていない」は無数にあるでしょうが、ありがちなものはこのリストで確認できると思います。