#002 坐禅の時と坐禅じゃない時、自覚の確かさ
【質問者】
坐禅の時と、坐禅じゃない時に違いはありますか?私は本質的には違いはないと思います。
【老師】
ふたつは無いもん、生きてる時に。
坐禅をしてる時と坐禅をしていない時って、ふたつの生き方をする動物じゃないのですね。
【質問者】
じゃ、なぜ我々は坐禅をするのですか?
【老師】
普段の生活と比べてごらんなさい。
今話した様に普段の生活と坐禅の時のあり方は著しく違うでしょ。
普段は、分別をさかんにおこして生活するのでしょ、ものに対して。
しかも自分の考え方を中心に生活するのでしょ。
西洋の考え方かどうかは別としてですよ、自己主張がものすごく強くなってきて、それがなんか人としてすばらしい様に教えている。
それは世界中の歪みに通じていますよね、いろんなものの。
一軒の家で考えたってわかる。
自分一人の中で考えたったよくわかる。
一番おだやかな時の自分の様子は、そういことをせずにいる時は一番おだやかでしょ。
【質問者】
そうすると坐禅をすればするほど、だんだん我というものが少なくなっていくのでしょうか?
【老師】
みんなそういう風に考えているんだけども、だんだん取れるなんてことはない。
そんなことはないですよ。
一気に取れてるんだけども、やっぱり自分でそこまで納得しないんだよね、考え方があって。
【質問者】
もともと無いものをあると思って、わざわざたてて、もともと無かったと。
でも人間てやっぱり、はじめから無いものを無いって、わからないわけで。
だから自覚するためには、何かたてないといけないですね。
まぁ、常に立ってるのですけどね私みたいなものが。
【老師】
自覚するのには、今のあり様が間違いなく誰にでもあるから、その今のあり様に触れたらいいだけじゃん。
他のものを自覚するわけじゃない。
今こうやって生活しているこの確かさに触れるってことで自覚をするんですね。
【質問者】
自覚ということは、人に私自覚しましたよね?って確かめてもらう必要もないはずですよね?
【老師】
ないことはないです。
ないことはないけども、人にとやかく言われて決めることではない。
自分の内容がちゃんとしてるから、話し合ってみる。
で、ずれがないってことでお互いが許しあう、そういう世界。
許しあうものが無く、単独でただ自分だけで、これで良しってしてるのは、けっこうあやうい。
うん。例えば、薬でいって、この薬を飲んだら効くよって言って、飲まして一人だけ治っただけでは、多分売り物にはならない。
90%とか、90何%ぐらい認めれると公に許可がおりるのでしょ?
そういものが、悟りの内容を点検するとか、証明をするとかって必要性があるってことでしょう。
言うのは自由だからね、「わたし悟りました。問題ないですよ。」って公言したって別にいいわけでしょ。
だけど公言したら、その内容が本当にそうなっているのかっていうのは、それとは別だからね。
虚偽の発言っていうのは沢山ある。
【質問者】
最終的には、自分が納得できるかっていうのが…
【老師】
そりゃそうですよ。
自分が納得できないものを納得したとは言わん。
【質問者】
例えば、人にお前は悟ったと言われたって、自分が納得できなかったらできないし、結局は自分が納得できるかどうかが一番重要なんですか?
【老師】
そりゃ、そうじゃなきゃ決まらないじゃん。
そういう例は沢山ありますよ。
人になんか「良しっ!」って言われたんだけど、「何を良しって言ったのか?」言われた人がよくわからないって人がいた。
【質問者】
それは悲しいですね。
【老師】
それはどっちも悲しいですよ。
許した人も悲しいなぁ。そんなことを許してどうするんだろうって思うんだけど。
普通はそんなのは許さないよね、自分がはっきりしていたら、そんなことでは許さないはず。
もうここらで、いいことにしようかって許す、そんな問題じゃない。