#003 坐禅した方がよいか?今とは?
【質問者】
ふだん坐禅はあまりしないのですが、やっぱり見性される方というのは、攝心とか連続坐禅会で、自分で目覚めていかれる方はかなり多いのですか?
【老師】
そんなにいないと思いますよ。
【質問者】
でもいるということは、坐禅会にもっと参加した方がいいのでしょうか?
そういこと思いながら今日は坐っていました。
【老師】
坐った効能というのは、何気なく生活をしている時に知らずに自分自身の今まで、つかまえていたものから離れた生活をしているようなところに触れるからなんですね。
【質問者】
そういう時に、こう、ぽっとでてくるような方がほとんどなんですか?
【老師】
それは、ほとんどそうです。
【質問者】
だから地盤としてはやっぱり一生懸命、坐禅を組んでて…
【老師】
とにかくこういうこと(黒板の「我見、旧見、偏見、邪見」を指して)しないのですね。
【質問者】
そういう努力というんか、僕には努力なんですけど。
【老師】
努力でもいいですね、表現は。
うん。とにかく、このとおり(黒板を指して)やってみる。
<黒板>
いつ → いま
どこで → ここで
だれが → 私が
何を → それを
どのように → そのままにしておけるか?
どれくらい
【質問者】
道元禅師がこういう風に坐ったらこうなるよっていうのが「普勧坐禅儀」なので、だからやっぱり坐らなあかんのかなぁと…。
形として坐ってないんで。
【老師】
うん、だから、形もあるけども、前にもちょっとふれたけど、「普勧坐禅儀」はですね。
冒頭の方が、坐る前にものがどうなってるかって事が、ずーと書いてあるんですね。
修行するとか、しないっていう前に、ものがどうなってるかっていう事が書いてある。
それを見ると、もう完璧だっていうような内容になっているんです。
そういことが最初に示されている。
その上で、じゃなぜ坐るのか?って言ったら、ものの道理としてはそうあるけども、そのことに本当に、あなたが、実物に触れたかどうかって言われた時に、頭で理解しているだけで終わってるということがあるんですね。
だから、本当に坐って実物に触れて、そのとおりの内容に、こう触れた時に、あっなるほどって合点がいくっていう、そういことが残ってるんです。
それをその次に坐禅の作法とか、いろんな事で展開して、坐っていかせる方法が次にずーと述べられている。
内容は最初からちゃんとしているでしょ。
修行してから、そういことができあがるんじゃない。
だから万人が坐って、そういう風なところに到達できるっていうことが言い切れるわけです。
修行して、だんだんやったらそうなるんだったら、恐らくやれる人は一握りもいないでしょう。
だから、最初からちゃんと出来ている内容で、今、みんな生活している。
だけど、それを妨げるのは、やっぱり、こういう見解(黒板の「我見、旧見、偏見、邪見」を指して)があって、実物にどうしても、直に触れさせない。
考え方を通して、実物に触れているので、わかっているようだけど歯がゆい。
【質問者】
考え方というか、考えるくせがついている。
【老師】
ついているように思うんですね。
ついているように思うんだけど、こうやった時に「パン!」(手をたたく)、どこに考え方がついているって見てみると、どこにも考え方なんかついて聞いてないんですね。
【質問者】
そんでですね、よく最近考えるのは、「今」を今と言ったとたん、もう今はない。
となると、今は言葉では、あるいは認識では捕まえられない。
手をたたい時は、その一瞬は耳の感覚では捕まえられるけど、それを認識で掴んだ時には今じゃない。
もう過去になっている、みたいなことをよく考えるんですけども…。
【老師】
ご苦労様です(微笑みながら、お辞儀する)。
ご苦労様なんですよね。
生活の様子に触れてごらんなさい。
本当に一度だって、ずれたことがないじゃないでですか、こうやって。
他のことが一切起きてこないんだもの。
どこを捕まえてなんて言わない。
本当に今の真っただ中に、ずーっと生きてますよ。
身体(からだ)全体見てごらんなさい。
先ほどの様子はどこにもないんだよね。
で、いまの様子って言って、捕まえていくような活動をしてないんですね。
無くなりもしないし、どこからも来ないし、不思議な活動なんです。
およそ私たちが考えてるような事ではないね。
今と言ったら今から、離れるじゃないかっていう、そういう活動自体だって、ぜんぜん今から離れてもいないし、ずれていないでしょ。
ただ、そうしゃべったとおり、思ったとおりの事が、その時、その時、きちーと行われたままで。
理論的には言いたくなるんですよね、そうやって、捕まえたらって。