#004 体験、知らずにつくもの
【質問者】
井上老師のプロフィールを拝見して、十代の時に野菜を採りに行かれた時に、その気づかれたという風に拝読したのですが、その時にはどのような事が起きたんですか?
【老師】
今まで聞いてた内容は本当に合点がいったということです。
【質問者】
その体験をされる前と、その体験をされた時っていうのはどのような違いがおありになりましたか?
【老師】
疑いが無くなるだけじゃん。
自分で疑いがなくなる。
信ずる用がない。
【質問者】
信ずる用がない?
【老師】
うん、だって、こうやったら、パン!(手をたたく)、こうなるでしょうって、信ずる用がないじゃないですか。
信じなきゃ、納得できないような生き方をしてないもん。
【質問者】
じゃ、それまでは念とか、いろんな思いとかが、そのリアリティというかですね…
【老師】
私なんかは、小さい時から別にそんなことは、ほとんど問題になっていない。
ものすごい純粋に生きて来たんだもの、うん、ほんとに。
だから学校の先生は(チョークを手に持ち)、これどうして白というかって教えてほしいって言うと困る。
小学校のころ、そうやって先生をいじめるのが好きだった(笑い)。
イヤなやつがいるなぁって思ってたと思う(笑い)。
【質問者】
もともとそうやって純粋に生きて来られたけど、合点がいくところまではいかれてなかった?
【老師】
ほとんどね理論的にはね、もう揺るぎのないもんでしたよ。
だから、みなさんがなんか気がついて、ひっくりかえるとか、大騒ぎをするような、そんなことは一切ない。
ものすごいおだやか。
【質問者】
野菜を採りに行かれた時?
【老師】
そうそう。
【質問者】
じゃ、一般の人たちは、そういう思いとか、先ほどおっしゃった我見とか偏見とか、そいった念とかに囚われてるので、そこに気づいた時に、こう…
【老師】
そうそう、大きな変化があるから、自分で喜べる、驚くってことがでてくるでしょ。
【質問者】
老師のお考えとして、普通の人っていうのは我見とかそういう自分の欲っていうか本能とかも含めて、そういったものに囚われているわけですね?それはなんでだと思いますか?
【老師】
守るんでしょうね。自分をね。
そうしないと、なんか生きてる価値がないように思うのかもしれないね。
【質問者】
自動的に起きるので、たぶん一種の本能の一部だと思います。
【老師】
まぁ、それはだいたい教えられてくるんですね。
まわりの人たちの様子の中で教えられてくるんですね。
一番卑近なのは、育てている人たちのものの見方がそのまま、知らない間に受け継がれて、そういうものを持つんですね。
町を歩いても、あの人はって言うんですね。
だれが、あの人はって教えたかって、別に教えた人はないと思ってるんだけど、親たちがそうやって見てるんですね。
そういうものをちゃんと受け継いで、そういう偏見でものを見る子供ができる。
食べ物も、子供は好き嫌いしないはずなのに、子供の好き嫌いを作っている。
親が好き嫌いが激しかったら、親が嫌いなものは、あまり食卓に出ないよね。
そんなふうになってるよ。
【質問者】
そうやって、我見とか偏見とかが自動化していく?
【老師】
知らずにね。
知らずについているもんだから、ついてると思わないんだよ。
あるとも思わない。
あたりまえだと思ってるんだね。
【質問者】
そういったものをとっぱらって、偏見とかをとっぱらって、人間本来のそういう状態に戻すひとつの手段が、その修行の手段が坐禅ということですか?
【老師】
手段よりも、いきなりその事実を見せるのが、みなさんが坐ってることでしょ。
これから、そこに連れていくのじゃなくて、やってる中が、そのとおりのことが今やってるから。
【質問者】
さっきおっしゃったように、そのとおりなのに、どっかで納得しないんですね?
【老師】
偏見とかがついていると、そうは思うけどもって、どっかに思いがつくんです。
わかるんですけどもっていうようなことは、やっぱり思いがどこかについているから、受け入れられないんですね。
間違いないって私も思うんですけどって、そうやってつけるんですよ。
すごい正直なんですよね。
みんな思いの中で生きてる。
【質問者】
思いとかそういうものでフィルターをつけてる、色眼鏡でみてるんですね。
【老師】
そうそう。
ほんとはどうかって?思いじゃなくて、ほんとはどうかって。
多分、間違いはないでしょうって思うんだね(笑い)。
そこでも、まだ思いから離れきれない。
【質問者】
本来の状態に戻るということは、特別なことではないのに、今の社会では特別なことになっているという?
【老師】
う~ん、まぁ数の問題かねぇ。
数が少なければ特別な事として扱われてしまうのでしょう。
【質問者】
本来ものすごくシンプルで人間の原点に戻るだけのことですね。
【老師】
足りないと思うから、とにかく総力をあげて、このものに、いろんなものを学んで、つけて、そして事あるごとに、こう、ものに向かった時に、憶えてきたもの、記憶したきたものを、ここに出して、そして学ぼうとする。
ひどい話をすれば、このこと(水の入ったコップを指し)を飲んだ人が10人いて、10人飲んだ体験を書いた本があって、10冊読んで、これを味わったら、10人の意見が飲んだ時に思い浮かばれるのでしょうね、きっとね。
それよりも、飲んだら、間違いなくこれだけの味がしてるシンプルなあり方があるにもかかわらず。
10人の人の意見を調整して、自分のあり様を実証しなければならないぐらい、頼りない生き方をしてる。
一切そういう人の意見はいらないのでしょう、こうやって飲んだら。
【質問者】
本来の直接体験を念とか思いとかが邪魔している?
【老師】
していますよね。
【質問者】
それを取っ払うのが坐禅ですか?
【老師】
坐禅は、そういことをやってますよね。
そうすると自由に活動できるようになってるんですね。
【質問者】
原点に戻ると、自由に活動できるようになってるんですね。
【老師】
そうですよ。
例えば、こういうもの(コップ)ひとつでも、どんな利用の仕方でもできるわけじゃん。
だけども、これは(コップ)何かを入れるものだっていう風に教えられていると、他のものに使えない様な気配があるじゃないですか。
ねぇ。
【質問者】
何に使ってもいいわけですよね。
【老師】
そうだと思いまよ。
どぶさらいをする時、これ(コップ)でこうやって汲んで、出してもいんだと思うんだけど。
「そんな汚いもの入れて」って言うんだけど、じゃこれが汚れるのかって?
【質問者】
ガラスだから、洗えば元に戻りますね。
【老師】
うん、取れさえすれば元のものに必ずなる。
だけどそれよりもイメージの方が残る(頭を指す)。
これで汲んだやつで水出されて飲むのかって。
やなんですねぇ(笑い)。
【質問者】
そこで、念とか思いが…
【老師】
間違いなくやられる。
嫌いな人が使ったコップだけどって、ちゃんと教えといて、お茶を入れて、どうぞってこうやって出す。
「その人が飲んだやつ、やだー」ってそのくらいなことなんだよね。
これ(コップ)になんかくっついてるわけじゃない。
そうやってイメージでやられちゃう。
不自由なんだねぇ。
こんな例を前にも出したかもしれませんが、一万円札とか、お札のようなもの、どんな人が使ったものでも、あげるって言ったら、おそらくスッと手を出す(笑い)。
嫌なやつが使ったやつだぞ、って言っても、ぜんぜん抵抗なくもらうんですね。
さっきまで、あの人のポケットに入っていたもんだって思っても、別に抵抗なく、どこが違う?
ものに対するやっぱり見方が、自分の中にあるんですね。
食器棚にものが並んでる時に、毎日使ってる私のものと思ってる食器を他の人が使うといやな感じがするけど、その他並んでるものは誰が使ってもなんとも言わない(笑い)。