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事実にふれる

#014 事実にふれる

 

【質問者】

その考え方を離れるっていうのは、いかなる思いが起きてきても手を付けないってことですか?

 

【老師】

そんな難しいことを言わずにさ、パン!(手をたたく)、こうやってふれた時に自分の考え方が付くかって?

 

【質問者】

はぁ、無いですね。

 

【老師】

ないじゃないですか。最初から付いてないないじゃないですか、こういことに用がある。

こういう体験してるのに、目を向けないんじゃないですか?

 

【質問者】

何度も聞いてるんですけど、まだピンときてないんですけど、ふだんの坐禅中はどうしてたらいいんですか?

 

【老師】

だからどうもすることは、いらないじゃないですか。

 

【質問者】

何もしない?

 

【老師】

今、生きてる様子だけでいいじゃないですか。

 

【質問者】

だから、それを眺めるわけでもない…。

 

【老師】

(コップを手に取り)こうやった時、どうですか?眺めてるんですか?

眺めるのは後でしょう?一番最初は眺めるなんてことなしに見てるんでしょう。

見てるというよりも、いきなりこうなるのでしょう?

 

【質問者】

坐禅中、その瞬間、瞬間ありのままにおれと…

 

【老師】

だって、それしかないじゃん、どこをとったってそれしかないじゃん。

今こうやって生きてる様子しかないじゃん、どこをとったって。

やり直して生きてる人なんて誰もいないよ。

 

【質問者】

ある人が表現してましたけど、たとえば新幹線に乗って外に景色が流れますよね。

それを景色にとらわれないんじゃなく、その瞬間、瞬間の状態にいつもいる…

 

【老師】

だってそうじゃない。

別に新幹線に乗らなくたって、歩いてったって同じじゃないですか?

歩いてる時だって、新幹線乗ってる時とほんとうに同じように推移している。

 

【質問者】

瞬間、瞬間ありのままに生きるってそれだけのこと…

 

【老師】

生きるなんてことは使わないじゃん、できてることに学ぶんですよ。

瞬間、瞬間やれてることに学ぶんです、それがどうなってるか。

 

【質問者】

考えにとらわれないってことでもないんですね。

 

【老師】

考えよりも事実の方が確かでしょう。

 

【質問者】

考えにとらわれないとすると、考えにとらわれない自分が生まれるから…

 

【老師】

それは言葉のあやでしょう。

そんなもんに引っかかっていたら、どうしようもない。

とらわれないってことは、本当にとらわれないことを指すんです。

 

【質問者】

坐禅のあいだのあり様がなかなかピンとこない。これでいいのかなと…

 

【老師】

もっと丁寧に言うと、坐禅の時と普段て、そんなことはないよ。

 

【質問者】

変わんないってことですか?

 

【老師】

いや、二つはないということ。

みなさん自分の生活みてごらんなさい、一本道じゃないですか。

複線があるなんて歩き方しないでしょう?

こっちの道とこっちの道と二本の道を歩くなんてことはしないでしょう。

いつでも一本道ですよ。

その上に坐禅のときがあったり、歩いてるときがあったり、ご飯食べてるときがあったり、座ってる時があるっていうことだけですよ、この一本道に。

全部、自分の生き様そのものじゃないですか?どこをとっても。

それをちょっと体裁よくするもんだから、坐禅のときとか普段のときとかって二つあるようにするから、やっかいでしょう。

 

【質問者】

そう聞くと、どうしても観察しようとしてしまうんですよね。

 

【老師】

観察する前に、(コップをつかみ)こうやった時の状況がすぐでてくるのでしょう。

 

【質問者】

それを坐禅中の内面に照らすとどうなるんですか?

 

【老師】

うぅん?どこが内面なの?

これが坐禅してると、こうやって触れたとき、これが自分の内面の様子なんでしょう?違いますか?

こうやってふれたら、このことがいま自分自身の内面の様子なんでしょう?他にはないでしょう?

 

【質問者】

外面と内面と自分で意図的に分けようとするんですね?

 

【老師】

だってこうやって、皆さん方が外を見てるっていうけども、外を見てることが自分の内面なんでしょう?

そうじゃないですか?

内面の様子って何を指すかって言ったら、ガーって音がした時、その音がしてるってことが自分のいまの内面の様子なんでしょう?

ものにこうやってふれたとき、あのとおり見えるってことが内面の様子なんでしょう?

それを鏡に例えてみれば、よくわかるじゃないですか?

あなたが鏡だったら、鏡の中って鏡の中の内面てなにを指すかっていったら、向こうにあるものが映ってるだけでしょう?

鏡の中って全部向こうの様子ですよ。

一般には向こうのことだと思ってるけど、鏡って鏡の中にほんとうに持ちものがなくて、向かったものが全部そのとおり鏡の中に映るだけです。

そのとおり外の内容なんです内容が。

 

【質問者】

それといっしょということをおっしゃっている。

 

【老師】

そういうことです。

間違いなく、そうなってるんじゃないですか?

 

【質問者】

それじゃ、すべてがその時のあり様ってことですか?

 

【老師】

そうです。

別々にあるってことないじゃないですか?

こうやって見ていて、向こうとこっち別々に、そんなことありようがないじゃないですか?

内側と外側が別々だったら、(右を指さしながら)こんなふうにならないんですよ。

(前を指さしながら)こんなふうに。

 

【質問者】

今、老師がしゃべってることが、今の私のあり様ですね?

 

【老師】

そりゃそうでしょう。

 

【質問者】

それ以外ないですね?

 

【老師】

ないです。

 

【質問者】

だから別個じゃない?

 

【老師】

別個じゃない。

だけど面と向かうと外は私のことじゃないって、こうやって見るわけじゃん。

そういう癖があるじゃないですか?

私は男だ、こちら方は女性だ、間違いなく私のことじゃないって、そうやって認識するわけでしょう。

 

【質問者】

それってひとつでもない。

ひとつという表現を使う必要もない?そのものっていう?

 

【老師】

(うなずく)だから鏡っていうのは例えとしては的確でしょう?

 

【質問者】

ひとつとかっていう表現はそれも違うんですね。

 

【老師】

(うなずく)

 

【質問者】

それはどういうことですか?

 

【老師】

本当にひとつの時は、ひとつって言わないじゃない?ね?

ひとつって言うと、必ずふたつになる。

 

(茶托を指さし)こういうものがあって、似たようなものがこうあってね、これとこれどうぞって、「全くおなじですね」っていう表現があるじゃないですか?

うそじゃんね、ここにあるもんと、ここにあるもんがあること自体、別のものでしょう?

 

本当にひとつって言ったら、ここに重ねたときに厚みがでてきたらおかしいじゃない?(笑い)

これ以上、大きくなったり、小さくなったら、おかしいじゃない。

本当にひとつっていったら、ただこれだけの様子があるだけじゃん。

何枚重ねてっていうことはないです。

ひとつっていうようなときは、本当ひとつのときです。

本当にひとつになっている。

なんともいわない、それくらいおだやか。

とやかく言うことは一切出てこない、へ理屈が一切出てこない。

理屈を言ってなんか納得させにゃならんものは何も残ってないんだよ、それですっきりするよ。

人間は実物にこう触れても、こう考え方で見るから、自分の考え方で見たときに気に入らないと、いろいろなんか言うじゃないですか、実物に対して。

それじゃ学ぶことにならないでしょう?実物を。

 

【質問者】

なんかそのー、みんな考え方を離れたくないんでしょうかね?

 

【老師】

う~ん、遊んでる方が好きだからね。

 

【質問者】

だから、事実にふれたくないんでしょうか?

 

【老師】

でも、(コップをもって)こうやって飲んで事実にふれない人はいないからねぇ。

で、こうやって飲んで事実にふれなかったら、味がしないじゃない?おもしろくないよ。

見たって事実にふれなかったら、(ペットボトルを指しながら)これおもしろくないよ。

必ず事実にふれて、そのものが見えるからこんなに楽しめるじゃん。

思ってたことと違うじゃない?事実って、おもしろいよ。

 

思ってたとおり、すべてがなっていたらどうなるんだろう?毎日生活をしてて。

自分の思ってるとおりすべて、思ってるとおりになったら…、どうなるんだろう?

 

【質問者】

たぶん、めちゃくちゃつまらないかと…

 

【老師】

めちゃくちゃつまらないのもそうだけども、すごい争いになるかもね。

それぞれいろんな思いを持ってるだけど、それぞれの思いがそのとおり実現されたら、そりゃ大変なことになりますよ、収集つかないよねー。

人の思いどおりじゃないからいいんでしょ?

人の思いを離れて事実ってものがあるからいいんでしょう。

人の思いによって狂わない確かさが事実にあるからいいんでしょう。

 

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