#016 禅は二十四時間
【質問者1】
お話を聞いていると、日々ものを考えずに見て、坐禅と区別しないじゃないですか。
じゃ、どういった時に坐禅を組むべきなのか、どういったときにやるべきなのかなと思いました。
【老師】
だから形を作った坐禅と、こうやったまま坐る坐禅があるじゃないですか。
で、一般的に知られているのは、道場があってきちっとしたものがあって、きちっとした形をして時間を区切ってやる、そういうのを坐禅と思ってるけど、ベンチでもなんでもいいじゃないですか、坐ったって。
家でちょっと、こうやっているときもあるでしょう。
どこででもできるんですね。
要は一番肝心なのは、常に考え方を通してもの見ていることをやめてみることだけじゃん。
まっさらで、こうふれてみる。
【質問者1】
ものごとを考えすぎになった時に、ちょっと一分でも二分でもやってみるというのは…
【老師】
毎日一分でも二分でもやったらいい、時間があったら。
【質問者1】
たとえば、たとえば椅子に座っているときとか坐禅を組めないじゃないですか?
【老師】
いいじゃない。だいじょうぶ。
【質問者2】
例えば電車でつり革に揺られながらとか、歩きながらでもできるのでしょうか?
【老師】
ああ、できますよ。
だけど一般的にはそれを坐禅とはいわないじゃないですか?
こういうかたちのものだけを坐禅という。
じゃ、なんて呼ぶかって言ったら、禅です。禅。
禅という言葉は二四時間です。
坐禅になると坐っている時だけ、当然。
だけど考えてると、そうやってすごく長い時間があるようだけど、現実見てみると今ただここで、こうやってるだけじゃん。
いつでもそうじゃない。
これにはびっくりするよね?
人生、すごい長い人生送るっていうんだけども、どこでどうやって生きてるかっていったら、この体がここにある時に、ここでただ生活してるだけじゃない。
一切それ以外のものないんだ、不思議だね。
全部この上で取り扱ってるでしょう?
うん、これ抜きで、なんかしていること一切ない。
いつも、これを相手に生きている。
だけど、どこからか知らないけども、なんかよそのものとか、そういう風な見方に変わるんだね。
【質問者3】
よそのものってなんですか?
【老師】
自分以外のものって線を引くんですね。
【質問者3】
例えば?
【質問者3】
こうやってると、私とあなたってことよ。
それが常識で日常茶飯事つかってるんだけども、それ以上は見たことがないじゃん。
人間の常識の範囲でしかものを見たことがない。
これがどういことなのか、これ私、これあなたと言ってることの内容がどういうことかって。
【質問者3】
全部自分のあり様ですか?
【老師】
そうですよ。
そこにあなたがいるっていうことが確認できているのは、他の人がやってはいませんからね。
ここに、こうものあるって、ここにいろんなものがあるってわかるのは、この私の力ですからね。
【質問者3】
寝てるときはわからないです。
【老師】
寝てるときはわからなくていいじゃないですか。
寝てるときわかったら、起きているんです。(一同笑い)
そうなっています。
だから、本当に寝たかって聞くと返事する間は起きてますね。(笑い)
それずーっとやってると、とうとう寝れなくなる。(一同笑い)
【質問者3】
五感が正常に機能しているひとのものでもある?
【老師】
大体正常に機能しているじゃないですか?
じゃ何が正常かって?
腹が痛い時、腹が痛くなるのが正常なんでしょう?
だけど、ひとつの考え方としては、腹が痛いのは変であって、腹が痛くないのが正常だっていうものの見方があるじゃないですか、ねぇ?
本当は腹が痛いとき腹が痛いのが正常なんでしょう?
腹が痛いとき腹が痛くないようだったら、どうなるんだ?(笑い)気が付かないよね?
ごく当たり前のことですね。
だけどそういう標準が人間にあるじゃないですか?
正しいって言って、間違わないことが正しいって思ってるから。
間違った時、間違ったようになることが正しいことでしょう?
そうは思わないよね、許せないじゃないですか?
間違った時、間違ったんじゃ、変じゃないかって。
本当はそうじゃない。
間違った時、間違ったことがきちっとあることが正しいっていうことでしょう。
それだから、間違ったって指摘もできるのでしょう。
なんかそういう風に人間のものの見方って非常に不思議なことをしていますね。