#019 ひとりの人が救えたらいい
【質問者】
その世界(考え方で取り扱わない)はつまらなくはないですか?
【老師】
なんでですか?
【質問者】
おもしろくなさそうに思うんですけど、できてないのに言うのもあれなんですけど(一同笑い)
【老師】
思うんでしょ?
やってみないで思うんでしょ?
やってみないで、そうなったら、つまらなくなるんじゃないかと思うから、やらないのでしょう?
やらないから、ほんとうはどうなるか味わえないのでしょう?
味わえないのに、自分の頭の中で、つまらなくなるんだろうなぁって言うから、そういう思いだけで生きているんでしょう、学んでも。
実際には、それは学ばないということでしょう。
聞いて自分の頭の中で、いろんなことを思うということをやってるだけであって。
【質問者】
やろうとするのに…
【老師】
やろうとするんじゃなくて、やらなきゃ。
やろうとすることと、やることは違いますよ。
【質問者】
そこの突破はどうするんですか?もやもやもやって…
【老師】
だっていま話していときに、そのとおりのことをやってるじゃないですか。
思うことじゃなくて、こうやって。
全部そういこと離れて、いま話ししているじゃないですか。
だから正しい話できてるでしょ。
つまならいってことないじゃない、こうやって話してて。
【質問者】
たのしいです。でも他の人には通じないというか…
【老師】
他の人になんで通じる用ががあるの?
あなたと話してるんだからいいじゃないですか。(笑い)
【質問者】
坐禅というと、よっぽどストレスがあるのね?って言われて…
【老師】
人が何を言おうがいいじゃないですか。
あなたが人に言われて、グサッとするようなものがあるとしたら、気が付いたっていうことでしょう。
ストレスがあることが?
【質問者】
ええー。(笑い)
【老師】
そうじゃないですか?(一同笑い)
ストレスがない人は、あなた坐禅にいくなんて、よっぽどストレスがあるんですね?って言われてもぜんぜん糠に釘でしょう?
相手がいくら刺してきても痛みを生じないのでしょう、これに(胸に手をあてる)持ってなかったら。
キズがあるところを触られるから嫌なんでしょう?
【質問者】
ちゃんと坐禅が自分できていないというのがわかるから、それができない悲しさをつかれたような気がして…
【老師】
だから相手の言葉に用があるのじゃなくて、自分自信がほんとうにどうあるかが問われているんでしょう?いつも。
【質問者】
すばらしいのか、すばらしくないのか、そういう考えがありますね。
坐禅がちゃんとできたら、どんなにすばらしくなるんだろう?っていう、そういう希望がないと、しにくいというか…。
【老師】
ちゃんと書いてある、すばらしくなるって。(資料を指しながら)
【質問者】
これがすばらしいってことなんですか?
【老師】
そうでしょう、不平も不満もないってことは、すばらしいってことじゃないんですか?
じゃないですか?
【質問者】
つまらなくないですか?ってまた…(一同笑い)
楽しいことがいっぱいあったりとか、坐禅したらこんなにすばらしいんだよって言わなくても、自分で表現できたらいいなと思うけども、なかなかそうならない…。
【老師】
(水が入ったコップを手に取り)
これを飲んときに、このとおりの味がするって言うことが、つまらないですか?
そんなこと、どうでもいいかしら?
これ飲んだら、このとおりの味がするってことが、どうでもいいことかしら?
つまらないことかしら?なんだそんなことかって言うことかしら?
そんな価値のないことかしら?これ飲んで、このとおりの味がするってことが。
これ飲んだらお酒飲んだ味がする方がいいのかしら?(笑い)
そしたら、これすばらしいって言うのかね?
【質問者】
なんか人に言って評価されたいと思ってるのかもしれません。
ふつうでいいです。
【老師】
平凡ていうことがどのくらい、すばらしいことか知っていますか?
【質問者】
知りませんでした。(一同笑い)
【老師】
非凡なことの方が、みなさんすばらしいって思ってるでしょう?
平凡なくらい非凡なことはないんですよ。
【質問者】
そうですか?
【老師】
そうよ。
だって平凡に生きてる人ほとんどいないもん、平凡を求めてないもん。
非凡なことを求めるんでしょう?ありもしないことを。
【質問者】
もっと良くなりたいとか…
【老師】
パン!(手をたたく)こうやって音を聞いたとき、もっとよくなりたいとかって、どういうことですか?
私の耳はつまらない耳だから、音がしたとおりにしか聞こえないって、もっとすばらしく聞こえるようになりたい?
【質問者】
あの音はこんな音だとか、そういう飾りのことばをいっぱい言うのがいいんじゃないかと思ってるふしがあります…
【老師】
金(きん)のやりとりをするときに、どうやって売り買いをするかっていうと、不純物を全部取り除いて、取引するんですよね。
真価というんですよ、このものの中にどれだけ本物があるかって。
大きさはこんなに大きくてもですね、本物がちょこっとしか入ってないと安いんですよ。
飾りは用ないんですよ。
全部取るんです、飾りを全部取って、真価だけで量るんです、ほんとは、ものをやるときには。
騙される人は飾りが立派だと、ねぇ、中身は無くとも買っていくじゃないですか。
五十万でかった金、売ったとき、なに?金が入ってないじゃない?一銭も払えませんねって、片付け料下さいって言われるかもしれない。(笑い)
いうような生活してるんじゃないですか?
【質問者】
だからいっぱい鳥の羽をつけたように、あっちの色、こっちの色、いろんな価値観というか、こういうふうに言ったら喜ばれる…
【老師】
そのうちに自分がなんだかわからなくなりますよ、全部ひとのもので作るとね。(笑い)
【質問者】
だから人のせいにしたくなるんですね。
あっ、いりません、わかりました。
価値あるものだけを求めます。
【老師】
いや、考え方を離れると、真価が問えるようになる。
ものの値打ちがよくわかるようになる。
着てるものがりっぱだと、中身が素晴らしいと思って飛び付くじゃないですか。
しょっちゅう見受けることでしょう?
銀行にお金を借りに行くときに、みすぼらしい恰好していくと、受付で相手してくれないって、この前言ってた。(笑い)
金(かね)がないやつだと思うらしい。(笑い)
そんな話してましたよ。
ちゃんとした服装すると、さぁどうぞこちらへって。(笑い)
まぁ世間てそんなもんかもしれない。
【質問者】
それは世界を救いますか?人を救いますか?
【老師】
世界を救うって大きなことを言うよりもねぇ、ひとりの人が救えたらいいんじゃないかしら?
【質問者】
自分のことですか?
【老師】
うん、一番確かさがあるじゃないですか?
理想は世界を救いたいかもしれないけど、自分を救えないで世界を救えるわけがないじゃない。
自分さえも救えないのに、世界を救うってどうするの?
釈迦がいい例でしょう?
釈迦っていう人は自分を救ったから、ああいうふうに世界を救う力が自ずからでてきたじゃん。
六年の年月っていうのは、一般から見ればものすごく無駄な生活じゃないですか。
考えてごらん、相当な人間的な生まれ育ちもいいし、恵まれた環境にいるし、地位もある、財産も名誉もある、学歴もある、全てのものが揃っていると言っていいような状況で世の中に出てきた人ですよ。
だから別に坊さんにならなくても、修行しなくても、苦しんでる人や、悩んでる人や、いろんな人を助けるくらいのボランティアすぐできますよね。
仕事がない?あそこに知ったやつがいるから頼んでやるからってやれば、ひとりくらいだったら雇ってくらいの力はありますよ。
ここよくわからないんだけど、教えてくれる?って言ったら、ああそうかって言って、ちょっと来て教えてあげるって、読み書きができて、育てるくらいのことができる人です。
だけど、なんで六年もそんなことを一切せずに坐っていたんだろう?
あの六年があって坐ってやったから、人を救えるようになった、自分がほんとうに救われたからでしょう。
そういうもんだと思いますよ。
だけど人間の考え方は、あなたがおっしゃるように、ひとり救うより世界の人を救いたい、救えたらいいって、そういう膨大な遠大な思想を持つじゃないですか?
この自分自身が自分自身で救われるって確かになったら、それをみんなに、こうやってやらしたらいいじゃないですか?
だけど、自分自身をどうやったら救えるかってことがわからないのに、人をどうやって救うんでしょう?
何を教えるんでしょう?それは現実の問題ですよね?
まぁそのくらいでいいですかねぇ。