#041 考えのるつぼ
【質問者】
坐ってて、いろいろ思うんですけども、ただ意が動いて思ってるだけの自然な働きとしての思いと、それに手を付けてしまっていることの境目がぼんやりとしてわからず、しょうがなしに無茶苦茶に坐っているんですけども。
【老師】
もう一回説明しますけどね、ふっと思いが出てきた。
そして出てきたものを見て、そこから自分の思いでやってるでしょう。
出てきたものを見る、どんなことが今思えたとか。
そこから自分の思いで取り扱ってるということですね。
そして、それに対して評価をする、出てきた思いに対して。
もっと激しいことになってますね。
評価したうえで、今度は気に入るとか気に入らないとか、正しいとか間違ってるとか、いろんな評価が付くと、人間てのは教えられてることがあるもんだから、本当はどうあったらいいかとまた考えるんですね。
結局は考えのるつぼの中に、ずーっと入ってくんです、どんどん、どんどん。
だから思いが出て来たときに、思いが出てきたときだけその思いがあるだけで居るだけ。
こうやって(資料を指さす)ふれると、そのとおりのことがあるだけ。
こうやると(資料を裏返す)、自然にちゃんと次のことになると変わるようになってる。
こうやって(資料を裏返す)。
コツ、コツ(机を叩く)。
コツ、コツ(机を叩く)。
ひとつひとつ、こうやって思いが出てくる。
コツ、コツ(机を叩く)。
そのとおりのことがあるだけで居る。
これに対して音がしたとか、また音がしたとか、こういうのみな自分の思いをつぎ込んでるってことでしょう?
そういうことで、ハッキリするでしょう。
思いが出て来てるだけのことなのか、それを取り扱ってることの違いがここでハッキリしている。
(会場で咳する音)
咳ひとつだってそうでしょう。
すぐそれに対して自分の思いが付く。
付いてるときの聞き方と、そういうものなしでふれてるのと、全く違うということでしょう。
みなさん方はわかってると思いますよ。
全く付いてないなら、咳がしただけで終わりですよね、そうでしょう?
何もしない、咳がしたのが聞こえただけで、それで、もうどこにもないんだもんね。
聞いたものを手放すとか、払うとか、捨てるとか、隠すとか、無くすとか、一切なんにもしないのに、ゴホッもうそれで終わりだよね。
こんないい生活ないじゃないですか。
なのに思いがちょっと付くと、いつまでもなんかそこらに残ってるような気配があるんでしょ?
そうすると、残ってるらしく自分で思えると、やっぱりそのままじゃ居られないんだよね(笑い)。
そうすると、取ろうとする、取ろうとすることは、さらに拍車をかけて思いに自分の働きを加えてるってことでしょう。
思いを止(や)めるのに思いを使ったら、止まるわけがないじゃん。
そういうこと知らないと、本当に思いを止めないよね、それだけですよ。
どんなことが思えたって、それが人を苦しめたためしはひとつもない!
人が苦しむのは、思えたことに対して自分で、それをいろいろ評価することが始まると苦しむだけです。
そういうふうに出来てる。
ものだってそうでしょう。
どんな悲惨な状況に出くわして、それにふれたって、それによって人が苦しむわけがない。
苦しみませんよ。
そこから、いろんな思いが出て来るんです、悲惨な状況にふれると。
それと、悲惨な状況って言うけども、本当は今も全く同じ状況に居るんですよ。
こんな平和そうに見えるけど、私たちが生きてるってことは、おそらくそういう内容と、ほとんど変わらない、厳密に言ったら。
いつどうなるかわからないんだもん、何処で。
そういうことだから、自分のこと自分でハッキリさせて、何時どうあっても大丈夫な人になるってことが救いでしょう。
そんなことを思うね。
思いって、それくらい人間にのしかかってくる。
そして、ものの真実が本当にわからなくなる状況まで追い込んでいくね、思いって。