#043 すっかり離れきる
【質問者】
気になることがあります。散歩の途中に大阪湾の景色がなくなっていくのを、これどういうことやろ?と考えたりするのですけど、見た世界が不思量の世界、それを考えたいというんか、不思量底を思量するとは、どういことなんやろうと思ってます。
【老師】
不思量って、人間の考え方が付いてないだけじゃないですか。
【質問者】
はい。じゃ考えないということですか?
【老師】
だって、こうやって大阪湾の様子にふれてるとき、考え事をしてるのと、本当にそのとおり居るのでは違うじゃないですか?
眺めるのと、本当に今こうやってるのとは違うじゃないですか?
眺めるっていうことは、少なくとも自分をここに置いといて、向こうの景色を相手にするということでしょう。
これは、間違いなく思量の範囲でしょう。
本当にこうやって、大阪湾の様子にこうやっているときに、眺める人なんかどこにもいないじゃん。
大阪湾の様子だけが、あるんゃないの?
【質問者】
そこまでは、なかなか。
【老師】
いろんな例えを出しますけど、映画館に行って映画を見るんだって、初めは映画見てますよ。
だけども、知らないうちに映画を見てるなんて、思わないじゃないですか?
で、終わったときに我に返って、あっ映画を見てたってことに気が付く。
ああゆうものだって、見てごらんなさい。
本当にものを見てるときには、必ず見てる人がいなくなる。
その、いなくなったときの内容を振り返ってみると、本当に、今だ嘗(かつ)てふれたことのない様な不思議な世界に生きてるでしょう。
何もする用がないほど、心底、楽しめるんでしょう。
【質問者】
そのときは、自分が映画の中におったような。
【老師】
そういうことで、ものの真相がどうあるかってことに、チラッとふれると、あっ本当に思量してる世界と思量を離れてる世界って、こんなに違う、ことくらいは明確になるんでしょう。
私が、あと説明しなくていいぐらい、非思量の世界ってそういふうなことが、自分の中の体験でハッキリするじゃない。
それがハッキリすると、そっからは思量を使わないですよ。
どうしたら、どうなれるかなんて、要らんお世話だって言われますよ。
努力して、作った世界じゃないからね。
一切、そういうことしないから、成れたんだから。
もし少しでも、映画そのものになってやろうって、なんかそういことやったら、どこまで行ったって無理ですよ。
手を付けないっていうことは、それくらい自分で何もしないと、そういうところまで、落ちていくんです本当に。
そういうことなんですよ。
作って出来るなら、楽じゃない?ねぇ、みんなすぐやれるよね?
そういうことなんですよ、作らないと出来るんです、これが。
自分らしいものを、すっかりはなれれきるって、こんなにおもしろい。
人がなんか、変に変わるんじゃない、ほとんど、そのままなんだけど、内容がコロッと変わる。
自分のことだから、自分が一番よくわかる。