#042 追尋すること莫れ
【質問者】
「坐禅が坐禅する」って本に書いてあるんですけど、それがわからなくって。
【老師】
どういうことでしょう?(笑い)
【質問者】
それがわからなくって、何やろう?って(笑い)
【老師】
本当は、そういうことを書いた人に、聞いたらいいよね。
書いた人が坐禅は坐禅になることだって、多分、人がわかると思って、書いてるんだろうね。
多分ね。
【質問者】
(苦笑)
【老師】
なんか突拍子もない、うがったような言葉を使うと、人はそれ以上よくわからないと「すごいこと書いてあるなぁ」とそういう評価する人(会場を指さし)沢山いませんか?
だめですよ、それ。
もっと本当に平易なことで書いてあっても、真意ってものが説かれたら、ああなるほどって、どんな下手な文章でも大丈夫。
そんなうがったもの書く必要がない。
だってこれを聞くとききに、パン!(手を叩く)他のものに一切用がないってことじゃないですか。
言わんとすることは。
これ(資料を手に取り)見てごらんって言ったときに、他にいろんなものが見えるけど、他のところに目を向ける人はいないんだよ。
そんなに上手く出来てるんだよ。
坐禅するときに他のところに行くわけがないんだよ。
だけども、実際には坐禅して何したらいいんだろう、って言うぐらい、わからないって言ってるんでしょう?
変じゃないですか!ものすごくおかしいことでしょう、なんでそうなるんですか?
それは、坐禅している実物に目を向けてないってことでしょう?ふれてないってことでしょう?考え方で探るってことでしょう?
坐禅て、考え方で探るなんてことは、一切しませんよ。
坐禅のときに必ず出て来るのは、「追尋すること莫れ」と、それがどういうことか?
「それ、どうなるんだ?」そういうようなことは、坐禅では一切やらない。
坐禅の中で、やってはならない根本的なことです、これは。
一番、人間の中で凄まじい思いは、この追尋の二句に収まってる。
「なに?」「どうして?」「それが?」その一念が今の事実から、みんな、はなれさせる。
それをやっちゃ駄目なんだ。
なんか、追及しないとわからないことは、ないのでしょう?
パン!(手をたたく)この音を聞くのに。
だって、実物にふれてるんだから、実物よりも、正確にものを伝えてるものないんだよね。
実物のなかに、その伝えたいもの全てがある。
一切、他から持ってくる用がないようになっている。
それが実物なんです。
だから、世界中の人が実物を見せて苦労したことはない。
初めて、こうやって出して、そのとおりちゃんと誰でもわかる。
どんなんなったか、わからないような人は一人もいない。
だけども、なぜか知らないけど考えたり、追及しないとわからない、って思うようになってる。
だけども、釈迦という人は不思議な人ですね。
そんなことしなくても、パン!(手を叩く)これだけでちゃんとこの音が間違いなく、どうもしないで、寸分ズレのない確かさに、こうやって今いるってことでしょう。
気が付いてます。
そういうふうに過ごすのを、修行するって言っております。
だけど、一般の人が考えてる修行は今の生活から、どっかに行くってことじゃないですか?ほとんど。
そう思いませんか?
そう教えていませんか?
今、生活していることから、他のところへ行かせるでしょう。
此岸(しがん)から彼岸(ひがん)に行くって。
こちらは迷いの世界だから、悟りの世界へ行きなさいって、そういう大前提があって教えてるでしょう。
それものすごく、わかりやすいよね、説明としては。
わかりやすいんだけども、ものすごい欠陥があるじゃないですか?
こうやって、パン!(手を叩く)今、音を出すのに、どこに向かうんですか?
この音を聞くのに。
向かう場所なんか、ないじゃないですか!
もし向かったら、この音から絶対はなれて聞くこと出来ない。
そういう風に生活していることがありながら、そんな教えを説くんだよね。
だから、いつまでたっても、切りが付かない。