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真を求むること莫れ

#044 真を求むること莫れ

  

【質問者】

修行していく中で、自分が修行が出来てるかどうか、どうやって確かめたらいいのかな?というのがあります。

今のあり様について疑問が出ないときが、修行が出来ているときなのかなと思ったりします。

 

【老師】

疑問が出たら、自分で疑問を解かずに。

 

【質問者】

ほおっておく?そのままにしておく?

 

【老師】

自分で、自分の中に出た疑問を解決するのは無理。

必ず自分流に処理するから。

 

【質問者】

・・・

 

【老師】

問題が出たら、こうやって話をしたらいい、捨てたらいい、吐き出して楽になるんです。

 

どんなに明快に、自分で答えを出しても、どうしようもないね。

独参てそういうことの必要性がある。

あそこに来て、全部吐き出すんです。

スッカラカンになって帰りさえすりゃ、修行ができる。

気になるものが少しでもあったら、修行にはならない。

坐ってたって、気になるんだもん(笑い)。

ほっときなさいったって無理だよ、気になるもん持って坐ってたら。

どうしたら気になるもん取れるかって、ぶっちゃけ話してくると、それで全部吐き出すと、スッキリするもんですね。

肩凝ってるとき、自分でこうやって揉むよりね、人に押さえてもらった方がずっと楽になるね。

自分で力抜くんだけどね、人に押さえられて、力が抜けるのは違うんです。

全部、任すと楽になる。

 

修行が出来てるとか、出来てないとかっていうことを、取り上げて云々している間は、修行していないということですよね、そうでしょう?

それが、考え事している証拠だから。

 

真を求むること莫(なか)れって、達磨(だるま)さんのあとの三代目の方の信心銘って、本の中に残している。

本当のことは、どうなってるって尋ねるなって。

パン!(手を叩く)ただ、こうやっている。

本当のことは、どうなってるんだろう?知りたいけど、尋ねることやり始めると追尋としてですね、ものを追いかけたり、探ったりするようになって、結局は知らないうちに、考え事の世界だけに生きていくんですね、不思議にそうなる。

 

だけど人間の欲求としては、本当のことを知りたいときに、そのまま何もしないでいて、わかるだろうかって疑念があるから、なかなか言っても、そのままやらない、どうしても探りたくなる。

だから、非思量の世界ってものが、坐禅にどうしても重要なポイントになる。

 

こっちで決めなくても、ものすごいハッキリするでしょう?パン!(手を叩く)

こっち(胸のあたりに手をやる)で決めるんじゃない。

それだけで、行けばいいじゃん。

上手に生活するってことは、一言で言えば、向こうの様子だけに用があるじゃない?

こっちのこと(胸のあたりに手をやる)なんか、一切用がないじゃない。

 

料理するんだって、そこにある材料のことだけでいいじゃないですか。

全部向こうの様子だけじゃない?こっちなんか一切ないじゃない。

材料の様子さえハッキリすれば、すべて出来ますよ。

 

仕事だってそうでしょう?私がどうなんて関係ない。

ここにあるもの見て、そのとおり、それに対して教えられて動いてさえいれば、ものごとはちゃーんとなっていく。

それじゃ、私の生きがいがないって、そうじゃない!こうやってることが、自分の生きがいだからね、要らないんだよ、それ以上。

 

ものを見るんだってそうでしょう?私が見てる様子なんて要らない、見るってのは、向こうの様子があるだけなんだよ。

 

聞くってのは私に用がないんだよ、相手がどう言ってるかじゃなくて。

向こうの様子だけが、ちゃーんとしてるのが聞くってこと、それで成り立つんだからいいじゃない。

 

ものを知らない人は、俺が、俺の方がって、こっち(胸のあたりに手をやる)をものすごく問題にして。

こんなの(胸のあたりに手をやる)要らないことですよ、修行するのに。

球が良く見えるようになれば、当たるんだよね(笑い)、どうやって振ったらいいかじゃない。

球が良く見えるようになったら、当たるようになる、そこに展開してるのが、よく見えるようになったら、どこがどうなってるか、わかるようになるんだよ。

 

こっち(胸のあたりに手をやる)が主じゃないですよ、修行するって。

だって、鐘の音がどんな音するって、こっち(胸のあたりに手をやる)が主じゃないじゃないですか。

向こうに鳴ってる音を、聞くだけじゃないですか。

 

大阪湾の景色がどうなってるって、向こうの様子を見るだけじゃないですか。

こっち(胸のあたりに手をやる)なんか一切用がないじゃないですか。

大阪湾の様子がよく見えてるってことが、間違いなく自分の今の様子だから、他の人が見てるわけじゃない、他の人が聞いてるわけじゃない、間違いなくそうでしょう?

 

これ(胸のあたりに手をやる)を最初に認めて、ものを学んでるから、どうしても、そういう風なことになりやすいじゃないですか。

だけど、親しくこうやって居てみると、向こうとこっち、って別々なものがあるなんてことは、一度もない。

こうやってるとき、そっち(会場を指し)の様子が、今の私の様子ですからね。

あなたと、こうふれあってて、こっち(胸のあたりに手をやる)の様子が、あなたの様子でしょう?今、そのとおりだよね。

それさえ、ハッキリすれさえすれば、それで済むことじゃん。

で、半分やらなくて済むようになったから楽でしょう?

こっち(胸のあたりに手をやる)のこと、何も手を付けなくてよくなったから、楽じゃないですか?

 

ものと親しく居るってことはそういうことしょう。

ものと親しくなったら、必ず自分の何かってものがなくなる。

必ず、相手だと思ってるものの様子だけがあるだけです。

それ今話してる音を聞くんだってそうでしょう、自分の方の様子なんか、まったくなくなる。

そこで音がしてるとおり、あるだけ、それを私たちは聞いてるって言う。

そこで音がしてるようになってるのは、聞いてる証拠です。

あっちの音、こっちに引き寄せて、ここ(胸のあたりに手をやる)に受けるなんて野暮なことはしない。

 

ものを見てごらんなさい、そこにあるとおりに見えるだけじゃないですか。

自分の眼(まなこ)に映すとは、自分の方にそのことがあって見届けるなんて一切ない。

本当に見てると、そこにそのとおりあるようにある、それだけじゃない?それが、本当にものを見てるときの様子でしょう。

知らずにこれ(胸のあたりに手をやる)がなくなっちゃうよね。

で、たまたま自分の方を見るとなんかあるけど、なんだろう?と思うくらい、自分の手だと思わないくらい、不思議なくらい、こうやっているんじゃないですか?

認識があるから、これを私の手だとか言って、動かしてみると動くもんだから、自分のだなと思うくらいの程度でしょう。

 

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