· 

ないものが見える

#050 ないものが見える

 

【質問者】

先ほど、白い壁を前に坐ってたら見えたら変て、確かにそうと思うんですけど、白い壁を前に坐ってるとき、空気がモヤモヤモヤってしたのが見えるときがあって、それはやっぱり変なんですかね?空気の対流が見えてるのかと思ってたんですけど。

 

【老師】

まぁ、有らぬことをやってるのでしょうね、間違いなく。

たとえ、どんなことが起きても取りあげずに居てごらん。

それを取り上げて、どうのこうのやれば思うつぼです。

 

【質問者】

あっ、いや。

そのまま別に何もないんですけど、本当は見えてはないのでしょうか?

 

【老師】

目に見えてるわけじゃなくて、頭の中にそういう風な気配が浮かぶから。

隣の人は多分見えてませんよ。

 

【質問者】

ああ~。

 

【老師】

でも、その本人には、自分の中の構造上、思うことがそこにあるように見える働きをもってるじゃないですか。

昨日、あの人に逢ったいうと、顔が浮かぶようになってるんでしょう?

 

【質問者】

モヤーって(笑い)。

 

【老師】

それに似てるというでしょ?

 

【質問者】

なんか、線路に立ってて、えーっと。

 

【老師】

線路に向かってて蜃気楼(しんきろう)のようになるのは、あれはそこの現象に間違いない(笑い)。

それは間違いない、夏の暑いときに(笑い)。

 

【質問者】

それと同じかな?と(笑い)。

 

【老師】

それは誰が見てもそう見える。

自分だけ見るのは、間違いなくその人の中の様子です。

だから、確かめてみるには何人かの人に、「ここに、こんな風に見えるんだけども、あなたも見えますか?」って聞いて、他の人が「見えない」って言ったら、それは自分の中で描いているものに違いない。

それだけのことです(笑い)。

 

【質問者】

そういうときは、ほっとけばいい?

 

【老師】

そっちに用はないということです。

 

【質問者】

あー、ふんふん。

 

【老師】

ね?それを相手にしてどうかする、出ないようにするとか、出ちゃいけないとか、なんかする用はない。

そういうのを手を付けるって言う。

手を付けるってことは、考え方で扱い始めるってことでしょう。

それを本当にやると、ものはわからない。

 

近くの方が、こんなことを話してくれたから参考になるか、どうか。

朝起きて、近くの公園に行って、お友達が五人くらい、いるらしいんだけど。

ラジオ体操して、それが終わると帰宅の途につく途中に池があって、そこに今、カワセミが二匹くらい飛んでるらしくて、それをみんなで、こうやって(双眼鏡を覗くまね)見て帰るらしい。

そのとき、その方がですね、最近、自分で双眼鏡が欲しくて手に入れたらしい。

グループの方が「貸して」って言って、「あんまり、よく見えないね」ってこっちに言うわけね。

グループの中に、もうちょっと違った双眼鏡を持っている人がいて、そっちのだと「ああ、すごくよく見える」とかって。

そういう話が交わされてるだけで、この私にですね(胸のあたりに手をやり)、不思議なことが起こる。

気持ちよくないんだよね。

「双眼鏡、良く見えない」って言われただけですよ。

刺激されて、いい気がしないんですね。

そういう体験、皆さん似たようなことありませんか?

 

七十歳近いですよ、何年も付き合ってるけど、やっとこの頃、「あぁ、いつも言うあれって、こういうことか…。自分でちゃんと聞いてない。こんなに自分で歪めて人の話を聞いてるんだ」ってことに気が付いた。

それで、不愉快になる、すっきりしてられない。

やっぱり、ちゃんと聞いてみると、「あなたの双眼鏡は見えない、こっちの人のは、はっきりする」って言うだけの話だということが、よくわかるようになった。

振り返ってみると、今までの人生は、殆どこういう風にして過ごして来たって、述懐(じゅっかい)をしています。

たった、それだけですよ、人生変わるんですよ、ちゃんと聞くと。

一切、余分なものは付いていない、だけど知らないうちに付けるんだよね。

「なんで、私の方が、あっちが…」って。

別に、その人を苛(いじ)めてるわけでも、なんでもないんだよね。

ありのままの話を、ありのまましてるだけなんだけど、受け取る人、こんなことでやられて、だんだん、そっちの人の顔を見たくなくなってきたりするんだよ(笑い)。

 

身近な話だから、こういうのすれば、皆さん、よくわかるじゃない?

修行って、そんなことって思うくらい簡単なことだけど、これがちゃんと話しているときに聞いてることでしょう。

ちゃんと話をしているときに、ちゃんと話を聞いてるだけで、こんなに人は変わるじゃん。

 

ものを見たってそうじゃん。

そのとおり見てればいいんだけど、見たものに対して、いろんな見方を自分で知らずに、すぐ付けて「また、あんなことやってる、何回やったら治るんだろう?」そうやって見てる。

こうやってるだけの話でしょう(拍子木を動かす)、このことが行われてるだけだ。

それ以外は全部、自分が付けたものでしょう。

そこに行われてないものを付けて、そういう変な見方をしている。

そして、自分で苦しんでいる。

 

こういうことがあるから、坐禅を勧めるのでしょう。

考え方、自分で付けたものを離れているときのあり方にふれてみると、こんなになってるということが明確なんです。

難しくも何にもないじゃないですか、一番楽じゃないですか、喋ってるとおり聞くんだから、余分なこと一切、要らない。

喋ってるのが止んだら、どこにも話していることが聞こえてないから、何を手を付けて、どうするって、ひとつも要らないじゃない。

気になることなんか、どこにも残ってないんだもん。

知らないから、なんかいつまでも、あのことが残ってるように扱ってるでしょう?

 

そんな人いたら、お目にかかりたい。

喋ってないときに、その話がいつも聞こえてるなんて人いたら、お目にかかりたい。

音がしていないときに、聞こえるなんてこと、ないじゃないですか?(笑い)

だけど、皆さんの日常生活は、音がしていないときに、ガンガン、ガンガン音がしてる。

そう思って、それ全部、自分の中で思い起こしている音声でしょう。

音はしていませんよ。

 

音がしてるんだったら、その人の傍(そば)に行ったら聞こえるはずだよね?聞こえてこない。

その人の傍に行ったら、そういう見てるものが見えるはずだけど、見えない。

そういうのやってみると、その人の中で勝手に映像を描いてるのが、ようくわかるじゃない。

 

そういうものを描かなかったら、人生寂しくって生きてられないかって?もう一回やってごらん。

そういうものが無いと、いつもクリアで楽しめる世界あるじゃないですか。

古臭い、カビの生えたようなものを取り扱うのとは違う。

旬のものが、頂けるじゃないですか。

そうすると、同じ年を取っても違うよね。

年を取ると、一緒にそっちまで年をとるって言うなら、そういうつまらない生き方をしてる人じゃん。

 

頭の脳の細胞、山中さんか?ノーベル賞とった人の話をちょっと聞いてたら、九十くらいになっても新しい細胞がいくらでも出来る。

で、それは坐禅のような考え方を余分にしないときに、一番そういうことが可能だ、実証されていると言っておりました。

だから坐禅を勧めるのは、そうやって外的な要因と言うか、科学的なメスを入れたもので証明されたものを持ってくると、皆さん、やっと納得するんだろうけども。

(一同笑い)

そんなことの前に、こんな三千年も昔の人が、今の一番進んでる世界を、さらに先取りしてるってことね。

そういうものが坐禅です。

 

いい閃(ひらめ)きっていうのは、決して何か考え事をして、出て来ない。

そういうものが、本当に止(や)まってるときに働くものだってことも実証されている。

そういうの並べてみると、坐禅て全部当たる(笑い)。

まぁ、そんなことですねぇ。

 

げんにーび対話集