#048 なぜ坐禅か
【質問者】
そうすると、わざわざ坐禅のような形をする必要があるのは、どうしてなんでしょうか?
【老師】
坐禅のような形じゃなくて、一番長い間の人生の中で、こうやって(坐を作ってみせる)自分の真相にふれるのが、一番ふれやすいのでしょうね。
もしこうやってるのが、あまり相応(ふさわ)しくなければ、三千年経ってこんなことやってるわけがない。
坐禅という形だって、あらゆる坐り方のなかで一番安定した坐り方ですよ、やってみて。
今でこそ、日常生活が日本も椅子が多くなったから、骨盤が固いとか、股関節が動かないとか、いろいろ言うけど。
諸外国から来る人たちは、足が痛くても組むもんなぁ(笑い)、そりゃ本当にやってみようと思うから。
柔らかくなりゃ、組めるようになるよね、生活習慣病みたいなもんだから、体がそういう風になってるのは。
スポーツ選手なんか見てご覧なさい。
脚が開かない人は、脚が開くまで鍛えてやっていくじゃない?
じゃバラバラになっちゃうかって言うと、そんなにはならない様に、ちゃんと指導者は、穏やかに体が緩むように教えてる。
坐禅の形より、もっといい禅の修行の方法があるんだったら、きっとそっちやってますよね。
もともと歴史をみれば、インドの国っていうのは、こういう部屋の中で坐ったっていう話は、あんまりないじゃん。
暖かい国で、涼しい木陰とか利用して、坐ってきたわけでしょう。
これインドから中国大陸に渡って、達磨がおられたような嵩山の少林寺みたいな、ああゆう揚子江の上流の方へ行くと。
私も一度、中国に行ったけど内陸の方に行くとマイナス何十度になるんだね、そういう寒い処に居るね。
だから洞穴掘って、あの中で坐った。
洞穴掘るとですね、目の前は外が殆ど見えないんだ。
壁間(へきかん)といって、土の壁です。
そういうところで、達磨は坐ってたのが、そのまま伝わって来るんだろうねぇ。
日本の建築の様になれば、坐ったときに、面と向かって坐るということは、坐るのにあまりいい条件じゃない。
こうやって(対面で)一時間、お互い。
こうやってる(下を向いている状態)ときはいいけど、こうやると(対面の人と目が合う状態)(笑い)、これは厄介ですよ。(一同笑い)
だから臨済でもし対座をする、向き合って坐るにしても、この間(対面の間)は相当離してある。
今、歴史を研究してくれる人達が沢山いるから判明してるけども、
日本だって臨済宗とか曹洞宗とかいうようなものが坐り方が壁に向かうとか、向かい合って坐るとかっている、
宗派によって別だってことが
学校では、臨済宗は対座して坐る、曹洞宗は壁に向かって坐るって、曹洞宗と臨済宗の違いって教えるもんだから、そう思ってる。
そんなのは歴史上、嘘だよ(笑い)、判明している、そんなことは。
そんなことに用があるんじゃないんだよ、本当に坐るってことは。
別に外に向いて、坐ってたっていいじゃないですか。
白い壁しか前にない処に坐っていると、疲れちゃうという人がいる。
そうかもしれないなと思うよね(笑い)。
だから、外が見えるような処で坐っても問題ないですよ。
ただ、教えておきますけど、さっきから話すように、ものにふれるとすぐ考え方を起こすから。
それで、考え方を見てるはずなのに、考え方をを起こして考え方を楽しむようなるから、それで一時間坐って、なんか疲れずに居たっていうけど、それは頭で遊んでる人。
それさえ、やらなかったら、外の景色のまんまに、こうやって居たら大丈夫。
いろんなものが見えたら、その見えたものに、ことごとく、いろんな思いをつけていくんだもん。
瞬時のうちに、見てることから離れて、頭の中で描いた方で、生活するようになってますよ、気を付けなければ。
だけど、壁に向かって坐ってるときには、他のものが見えないようになってるから、自分でやったら、すぐ分かるじゃないですか、変だってのが(笑い)。
見えてないのに、他のものが見えるようになったら、完全に考え方を相手にしてると、すぐわかるじゃないですか、そういう利点がある。
ねぇ、白い壁に向かってて、いろんな映像が出て来るったら、変でしょう(笑い)。
知らないうちに、目を開けてちゃんと坐ってますと言うけど、目を開けてちゃんと坐ってると、このように(坐ってる前を指し)なっています。
こっち(頭を押さえ)に出てきたものを見てるのは、目を開けて坐ってるとは言わない(笑い)。
「目をつぶって、坐った方が楽だから」って言う。
楽かもしれないけど、目を開けて坐りなさいって言ったら、目を開けてみるさ。
自分で楽だからって、そんな勉強の仕方ないじゃんね?(笑い)