#046 坐禅以外のとき
【質問者】
坐禅をしていない日常的なときでも、できるだけ考えを持ち込まない方が早いんですか?
【老師】
今、聞いてもらったはずなんだけど、どうしてそう言う風なことになるのかな?(笑い)
坐禅のときと、坐禅以外のときとかって、言うようなものはないんですよ、今、話したとおり。
誰でもそうじゃないですか、今、こうやって生活している以外にないじゃないですか?
皆さんが、形が坐禅の形をしているときとか、トイレに行ってるときとか、と思うもんだから、いろんなものがあると思ってる。
見てご覧なさい、何処を見たって自分の今、生きている様子だけですよ。
坐禅のときは、ご飯を食べてるときは、そんなことはないですよ、そっちは上部(うわべ)の話だからね。
さっきもあったよ、ものを見て上部の現象として見えている話、本当の内容は、いつでも自分自身の今こうやってる様子に、ふれてるだけじゃないですか、そっちに用がある。
だから坐禅のときは、坐禅でないときは、どうしたらそう成れるか、そんなことはない。
そして、考え方に渡ってるときは、間違いなく考え方をしてるだけであって、事実にふれるってことは無理です。
そして、こう事実にふれてるときには、考え方は付いてない。
こうやって(花瓶の花を指さしながら)水仙の花にふれたときに、考え方は付いていない(会場を見回す)。
見ると考え方を起こすのよ、何も付いていないのに。
これに、考え方が付いているわけじゃないですよ。
実物には、何も考え方は付いていない。
考え方は、各自、一人一人、皆さんの中で付けている。
それを自分で付けると、(花瓶の花を持ちながら)ちゃんと見えてるはずなのに、見てることにならなくなるじゃん。
それが、日常生活の中で、皆さんを困らせてるんででしょう。
だから、坐禅以外のとき必要ですか?とか言う様な話じゃない(笑い)。
そういうことが、禅と言われるんです。
禅ていうのは、坐ってるときだけじゃないんですよ、二十四時間!
お医者さんが、白衣を脱いだら只の人、そんなことはない。
お釈迦さんが、衣を脱いだら凡人て、そんなことはない。
無垢(むく)って言うのは、どこまで削ってもですね、金(きん)なんだよ、純金(じゅんきん)、全部。
そういうのを無垢の仏様っていう。
張り子はすぐ剥(は)げる(笑い)、上だけだから。
皆さんだって、自分のことを尋ねてごらん、どこまで行ったって自分自身の真相に違いない、一切、人の様子はないでしょう。
だけど、思い方は「こんな自分で」って思っている。
そんな、つまらないものじゃない!ってことを自分で見届ける用があるじゃないですか。
そうしなければ、このものを愚かにするに決ってますよ。
自分をつまらなくするものは、本当に自分なんですよ。
自分が、自分をつまらなくすると言うのを、もっと具体的に言えば、自分でありもしないことを自分に付けて、そういう見方をしてることが、自分を縛って、つまらなくして行くんじゃん。
私、初めてだからって、あそこから(会場入口から)なかなか入ってこない。
初めてだって、なんだって、すっと入って来れるよねぇ。
自分の考え方がそうなると、「古くから来てる人の前に行っちゃ悪いから」って言って、「どうぞ」って言ったって、なかなか来ない。
別に言われたとおり、すっと動いたっていいじゃないすか。
そういうもんでしょう、何も失礼なことないでしょう。
「お前どけ、俺が」って、そうやって座るわけじゃない(笑い)、「そうですか」って言って座るだけのことじゃない。
まぁ、そんなことですよ(質問者の方を向いて)。
【質問者】
はい。