#052 上手な生き方
【老師】
もし上手な生き方を問われたら、どうするかって言ったら、自分のことすっかり忘れてしまって、相手の様子だけで過ごせばいいってことじゃんね。
それだけじゃん。
ものと相対して、必ず対象になるものを相手にして、生きてるわけでしょう。
そのときに、ものを見ることだって、こっち(胸に手をやる)に用はないじゃないですか。
向こうのものだけじゃないですか、見るときには。
これ(花瓶の花をさして)を見るって言ったら、これだけじゃん。
こっち側(胸に手をやる)の見てるひとなんか、問題ないじゃないですか、これ(花瓶の花をさして)があるだけじゃないですか、それを見ると言ってるじゃない。
これが(花瓶の花を指して)このとおり、ハッキリしてさえいれば済むことじゃん。
それなのに、こっちに(胸に手をやる)自分がいるから、自分の様子はって言うけど、これ(花瓶の花を指して)が自分の様子ですからね、向かったときに。
他の人の様子じゃないですよね、こう見えるってことは、これが(花瓶の花を指して)、今の自分の様子じゃん、それさえあればいい。
もうちょっと、卑近な例をあげれば、看病するときなんかのことを挙げればよく分かるでしょう。
看病するっていうことは、どういうことかって言ったら、看病する私に用はない。
向こうの人のことだけ、やりさえすればいい、そうでしょう?
向こうの人のことだけ、やってあげれば看病になる。
ところが知らない人は、もう準備して行くんだね。
「向こうに行ったら、こうしてやったら喜ぶんじゃないか、ああしてやったら喜ぶんじゃないか」って、それ全部自分のことやってるだけじゃない。
だから、看病される人が何しに来たんだろう?って思ってる。
「私のこと、ひとつも相手にしてくれない。あなたが勝手に思ってること、良かれと思ってやって帰るだけであって、私のこと何も看病してくれていない」そう思ってますよ。
本当の看病ってのは、私のことなんかどうでもいい、行ったら、その人の様子があるから、その人の様子にふれて、その人の気に入る様にやってあげて、帰って来ればそれで済むことです。
それ、全部自分がやってることだから、それ以上、用はないじゃない、自分のこと云々て。
向こうの人のことやってることが、自分のだからね。
向こうの人のことしかやってないと思ってるんだけども、向こうのことやってることが自分のことなんだ、全部。
それ以上、自分のことが、どっかにあったら厄介でしょうがいない、ないよ、それで十分。
人の話を聞くんだって、そう、向こうの喋ってる人の様子がありさえすれば、それを聞いてるという。
本当に聞くってことは、こっちのこと(自分の身体を指し)一切ないの、向こうの人の様子だけ、喋ってる人の様子だけがあることを聞いてるという。
だって、ものを本当に見てるって、このもの(花瓶の花を指して)の様子があるだけでしょう、自分のことなんて、出てこないでしょう。
ここで、やってごらんないさい、こうやって。
これを(花瓶の花を指して)本当に見るということは、自分がどういう風に見てるとか一切ないじゃない、この様子だけがあるじゃん。
この様子が、ちゃんとそのとおり、受け入れられるようになったら済むことでしょう。
そういう風なあり方を修行する、っていうじゃん。